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寄稿: マルカレン事件から10年、ノワールからアイドニス像を取り上げるのは遅くない
2019-05-03 13:05 スコープ、レト・グロリアクス

注意: 「レト・グロリアクスのギャラクティック・アワー」は、「ビロアクラリオン」および著者とのシンジケート協定により、YC121年4月28日に公開された記事を再公開する。

YC110年初頭、カメラマン達が郊外の芝生に機材を設置したのは、アイドニス財団会長が到着する1時間ほど前だった。1時間後、自宅の庭先でアイドニス像をたずさえて微笑むアレクサンダー・ノワール提督の写真が撮影されたが、それが後にどれだけ忌まわしい一枚になるのか、カメラマン達には知る由もなかった。当時のノワール提督に進呈された非公式な称号は、「史上もっとも議論の余地のないアイドニス賞受賞者」だった。YC104年にハイデラン7世がアイドニス賞を受賞した際は、各方面から非難の声が巻き起こった。それ以前に、ティエリイェブ条約の署名者たちが受賞した際も、代表取締委員会…ガレンテ・カルダリ戦争の一因になった存在へアイドニス像が渡るということで、やはり論争になった。対照的に、ノワール提督が受賞したときは国境の向こう側、まさに彼が戦った相手から賞賛が寄せられ、カルダリ海軍の関係者らは友好に満ちた言葉を贈った。

新古典派建築家とコンセプトアーティストが一緒になってニクス級大型艦載機母艦のデザインを作りあげたとき、彼らの念頭にあったのはユーライ会議だった。彼らは平和が現実に存在するものとして捉えられるようになった数十年ぶりの世代であり、設立されたばかりのCONCORDの奮闘も、この若き夢想家たちに力を与えた。ところで、調停王ドール・ドス・ルヴェナー3世は36年間の治世のあいだに大量の肖像画を描かせた。どのくらい大量かというと、ガレンテの歴史教科書出版社が一作ずつ表紙に貰っていっても使いきれず、残りをアウターリアーゼ図書館に展示しなければならないほどだ。彼の王笏はまさにそこに収蔵されており、金メッキの輝きを放って大学生を魅了している。そんな平和のシンボルを戦争の道具へ転用するとは皮肉だと思われるかもしれないが、そうした考え方は最初のニクス級、最後まで実戦を経験しなかった1番艦によって覆された。FNSニクスは終戦後に完成し、最初の仕様は戦闘向きとは言えず、弾薬のかわりに最先端の人間工学や医療技術が詰めこまれていた。連邦海軍もニクスを戦場ではなく戦災地へ派遣することで、より有益に活躍させた。

YC110年5月15日に命を落とした人間と、生きて翌日を迎えた人間がいる。だが、どちらもあの事件に驚愕したはずだ。純粋な驚きでいえば、現場で亡くなった人々のほうが大きかったかもしれない。私たちはノワールやニクス級について聞いたことはあっても、自分にむかって特攻してくる光景は見たことないのだから。ステーションのシールドがFNSワンダリングセイントを押し止められず、阻止限界点を突破する中継映像は、きっと犠牲者たちも目にしていたことだろう。彼らがそれをどう感じたかは分からないが、アイドニス財団がどう考えたかは分かる。財団の理事会は事件を受けて、このような声明を発表した。「アレクサンダー・ノワールが最後にどんな狂気に駆り立てられたにしろ、彼が1世紀近く平和に貢献してきた事実を消すものではありません。アイドニス像はその功績に贈られたものであり、我々は没収しませんし、没収されるべきだとも思いません」

この声明が妥当なものか判断するには、ノワールが約1世紀にわたって続けてきた外交活動を振り返らなければならない。彼がガレンテ・カルダリ共同研究計画「クリレラプロジェクト」を支持し、元老院で熱弁を振るったことを誰が忘れられるだろう? プロジェクトが実現した結果、モルファイト応用技術やフィールド生成物理学、T2ブループリントは大いに進歩した。また、ジョヴ幹部会やソウロ・フォワリタン大統領、イシュコネ社オトロ・ガリウシCEOといった政治的な有力者たちが、継続的な協力関係を築くための礎にもなった…おっと、申し訳ない。プロジェクトは滅茶苦茶になって終わり、ガリウシもノワールの攻撃による数十万の犠牲者の一人だと、助手から物言いがついた。

ノワールの経歴を振り返れば、もっと適切な結論が導き出せるはずだ。ティエリイェブ・ポケットをめぐる、彼の巧みな外交活動について検討してみよう。ティエリイェブ星系はガレンテ市民が暮らすガレンテ領に囲まれているにもかかわらず、ガレンテ・カルダリ戦争ではカルダリ連合が支配し続けた場所だ。戦争中、ティエリイェブは要塞化され、カルダリ本国に通じるジャンプゲート以外は行き来できなかった。だがある日、連邦と代表取締委員会の代表団が一枚の書類にサインして戦争は終わった。ノワールはティエリイェブに新たなジャンプゲートを設置し、近隣のガレンテ領に接続することを提唱。さらには星系を共同軍事管理することで、星系を貿易拠点として発展させようと考えた。実際…ちょっとノートを確認させて…

失礼。マルカレン事件のあと、カルダリはガレンテとの緊張が高まったことを考慮し、ティエリイェブから資産を撤収して別の場所へ送っている。これは良い例ではなかった。

YC110年にアイドニス財団がノワールの「狂気」を過小評価したことは、許容する余地があるかもしれない。事件がどんな結果を生んだか完全に把握するには、さらに時間がかかるだろう。とはいえ、10年が経ち、今や11年目になろうというのに、私たちはいまだ事件の遺産を背負わされている。その遺産の名は「戦争」だ。ノワールが平和のために何をしたにせよ、今となっては何もしなかったほうがマシだと言って差し支えあるまい。第一次ガレンテ・カルダリ戦争は彼が行動しなくとも終わっていた。第二次ガレンテ・カルダリ戦争は彼が行動したために始まったのだ。

筆者紹介。フェリセンヌ・オルベナーリ博士はケイル大学で教鞭をとっている政治学部教授。彼女の著作「コミュニケーションネットワーク: 超大国の柱」はYC121年5月10日発売予定。

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